つなワタリ@捨て身の「プロ無謀家」(@27watari)です。
今回は「さつまいもの呼び名」について紹介します。意外な歴史も含めて、「へぇー!?」と感じることも多いはずです。
さつまいもに興味がある人……さつまいもは中国から沖縄に入ってきたのが最初です。最初の呼び名は「さつまいも」ではなく、「ウム」だったそうです。全国各地では独特の呼ばれ方もされたようです。その呼び名と歴史を紹介します。※記事内のリンクはamazonなどの関連リンクへ飛びます。
【目次】本記事の内容
さつまいもが伝来した時の呼び名は、ウム(ンム)
さつまいもの日本伝来は江戸時代です。中国から沖縄県にもたらされたのが最初です。1604年頃に進貢船の一員(総管)として中国福建省に赴いた野国総管(のぐにそうかん)が鉢植えにして持ち帰ったのが最初です。それが1605年のこととされています。その後、鹿児島に伝わり、一気に全国へと普及しました。ちなみにさつまいも伝播を讃え、嘉手納町には野国総管の墓があり、顕彰碑「総官野国由来記」(1751)が建立されています。
日本に最初に伝来したときの呼び名は「ウム(ンム)」でした。これは柳田国男『海南小記』で紹介されています。ちなみに柳田国男は沖縄県(南方)に日本文化の源流があると考えていました。
「ウム(ンム)」と呼ばれることになった理由は定かではないが、名護市出身でさつまいも文化研究の第一人者である比嘉武吉によると、伝来当時の呼び名は中国語の「蕃藷(ばんしょ)」であり、その中国語読み「ハンスー」が使われていたと推測している。それが「ハンス」に転じ、さらに「ハンス・ウム(琉球で芋のこと)」に変わり、やがてハンスが取れて「ウム(ンム)」となったのではないかということです。
柳田国男によると、さつまいもと呼ばれるようになったのは大正時代ですが、伝来の地である沖縄県では現在も「甘藷」を公式の場では使っています。そして野国総管関連のイベントも続いているようです。
薩摩藩(南九州)では、唐芋(からいも)
野国総管が沖縄県に持ち帰ったのが1605年。その4年後に琉球王国は薩摩に攻め込まれます。そして鹿児島に服属した琉球王国は薩摩兵にさつまいも料理をふるまったそうです。その味に喜んだ薩摩兵が持ち帰ったのが全国への広がりのきっかけです。
実際、鹿児島にさつまいもは大量に持ち込まれたと推察されるが、爆発的に人気になったわけではありません。本格的に栽培されるようになったのは、約100年後となります。1698年に種子島での普及が始まり、さらに1705年に山川郷(現在の指宿市)で栽培が始められました。このタイミングで普及していくこととなります。
その後、「唐芋(からいも)」という呼び名が薩摩藩で生み出されます。それは薩摩藩主の島津重豪(しげひで)が編纂を命じた百科事典『成形図説』(1804年刊行)に記されたことがきっかけでした。そこにはさつまいもは沖縄から伝来したものではなく、「1600年前後に薩摩藩の貿易港『唐湊(坊津)』にもたらされた『唐芋(からいも』」と呼ばれた記されました。実際、薩摩藩ではそれまで琉球芋と呼ばれていましたので、それが事実ではなく捏造だったことも考えられます。いずれにしても1700年以降に薩摩では「唐芋(からいも)」という名前が広がっていきました。
長崎では、「琉球芋(りうきういも)」
薩摩藩から広がった「唐芋(からいも)」という名称とは別に、当時、長崎(北九州)では「琉球芋」と呼ばれていました。実際、1615年には平戸のイギリス商館長、リチャード・コックスが試作をしたという記録が残っています。
江戸時代の3大農業書のひとつである宮崎安貞の『農業全書』(1697年刊行)には、さつまいものことは「蕃藷」と表記され、その呼び名は「ばんしょ、あかいも、りうきういも」と紹介されました。
朝鮮半島にも伝わっていった対馬の「孝行いも」
当時の先進的な農政家たちにとっては、さつまいもは非常に魅力的な作物でした。それは凶作のときでも、荒れ地でも収穫できるものだったからです。
対馬の陶山庄右衛門は対馬で猪や鹿を撲滅した農政家として知られていますが、早くからさつまいもの情報を入手し、1715年には種芋を薩摩から持ち帰らせて普及に務めました。そこで付けられた名前が「孝行いも」。どうやら呼び名と合わせて「貧しい家の子どもが山で見つけて育て、親がたいそう喜んだ」という逸話を捏造?して広めたことが理由だともいわれています。300年前に付けられた『戦略的商品名』ともいえます。すごいことです。少なくとも当時から食糧不足で悩まされていた対馬の農家たちにとっての救世主的な存在であったことは間違いありません。
その後、「孝行いも」は壱岐や朝鮮へと伝わっていきました。壱岐ではさつまいものことを「こぐま」と呼ばれているようですが、これは「孝行いも」が訛ったものとされています。
1975年に青木昆陽が「さつまいも」を試作
江戸では徳川吉宗の命によって青木昆陽が試作しました。小石川御薬園(現在の小石川植物園)などでの試作が成功したのが1735年のことでした。この頃は「薩摩の芋」と呼ばれることも増え、ここから「さつまいも」の名が徐々に認知されていくこととなります。しかし、同じように「甘藷」も使われることが多かったとされています。
ちなみにさつまいもの試作は青木昆陽の挑戦以前にも行われていました。その報告書として埼玉県に1722年「会田家文書」、1730年「野口家文書」の2点が残っています。それぞれの文書には試作に失敗した内容が記されています。
「甘藷」から「さつまいも」へと移行
江戸時代にはさつまいも料理書『甘藷百珍』も作られ、版を重ねたそうです。ほんのタイトルからもわかるように、どうやら当時は「甘藷」押しの雰囲気があったことは事実です。もちろん現在も言葉として残ってはいますが、柳田国男の研究(前出)によると、大正時代には「さつまいも」が主流となっていったようです。
現在は「さつまいも」一色といってもいいでしょう。その理由はわかりません。「甘藷」という漢字は画数が多いので、書きにくいのがネックになったのかもしれません。
では!
さつまいも参考資料
タイトルをクリックするとリンク先に飛びます。
◯ 『サツマイモ事典(いも類振興会)』
さつまいものすべてがわかる事典を目指し、サツマイモの起源・伝播、作物としての特性、品種、栽培、普及、流通、加工から食べ方、文化にいたるまでを網羅してまとめられています。
◯ サツマイモ(Wikipedia)
さつまいも全般をまとめているネットの定番フリー百科事典です。
◯ 柳田国男『海南小記』
初版発行は 1925年。「南の島々にこそ日本文化の源流があるのではないか」と考えた柳田国男が、大正九年に九州・沖縄諸島を旅しながら発見を繰り返しました。日本民俗学の南島研究の先鞭でもあり、最晩年の名著『海上の道』へと続く思索の端緒となった紀行文です。
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